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展覧会を終えて(雨上がりのふわふわ島) |
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間 康宏 |
| 田中慎平の作品を見る観客の反応を作者である僕たちが見ていると、概ね三つに分けることができるように思った。一つは作品を大きな絵本としてみる傾向。一つは作品中のキャラクターのようなものを中心に見る傾向。最後の一つは作品を絵画と文学の混在としてみる傾向だ。 もちろん、完成した作品としてのアートは見る人それぞれが自分なりの見方で何かを発見するための戦いの場であって、作者の意図を当てるクイズではないのだから見方は本当に自由なのだと思う。逆に、さも分かったかのようなことを言ってはいるが、人の想像力の豊かさに改めて驚き舌を巻いているというのがぼく自身の率直な感想だと言っておきたい。さらに言えば、僕たち自身ですら自分たちの作業がいったい何であるのかということの地平線ががまだ明確には見えていない段階にある。だから今回は一つの試論として、自分自身の作業を検討を加えることで足下に広がる空白の地図を幾らかでも埋めてみたいと思う。 僕たちの作る作品は一見したところそれが何かということをにわかには断言できないと思う。その理由はキャンバスに絵の具で描かれていながら自立した絵画とは言い難く、また詩としての文字が書き込まれているにもかかわらず詩として自立していない。ところがそうであるにもかかわらず作品としては成立しているからではないだろうか。そしてこの名付けようのない物としての作品の成立は、制作過程においてそれぞれ詩と絵に対する僕たち二人の視線が変更を余儀なくされることで可能になったのではないかと、ぼく自身は考えている。 作り手の視線の変更とは、見ることと読むことが逆転するという意味で変質してしまうということだ。例えば作品中の詩は、テキスト量としては非常に少なく、時には絵の陰に隠れてほとんど読めない状態にまでなっていて、本来の正常な文章のあり方から見れば、読むことを拒否しているかにすら見える状態にある。しかし、作品に用いられている詩は元々完全な状態の詩として書かれており、読むということが前提条件になっている。 このことは僕たちが制作過程のある段階から詩を部分的に切り取ったり、文字として扱うことで、形や大きさ色などに変更を加え読みとるための意味から見るための物へと扱い方を変化させたことが原因となって起こる現象だろう。さらにいえば、扱いを変化させることで言葉はデザイン的な要素を盛り込まれた物へと完全に変質するはずが、決してそうはならないのは、僕たち自身が詩が詩であることを手放そうとしないからに違いないし、言葉自体が本来単一な何かとして割り切ることができない多義的な物であるからではないだろうか。 絵について述べれば、絵は一見筋書きのある物語の挿し絵のように描かれている。実際にはなんの筋書きも存在しないのだが、僕たち二人が共通して持つイメージを原点に、そこから始まるまだ見たことのない場所や物語への展開を図化するような作業がなされている。だから、作品の絵の部分は「絵画とは何か」ということを絵画で示すためにキャラクターのような物を用いて描いてるというよりも、何かを語るための言葉の代わりにキャラクターらしき物を用いているにすぎない。 その点では、この描かれたキャラクターのような物は表情は勿論アニメや漫画に近いのだが、出自を求めるならばそこではなくむしろ原始美術やフォークアートといったものになるのではないだろうか。例えばアボリジニが描く同心円のある樹皮絵は、勿論抽象絵画ではなく、見る者が見ればよどみなく一つの物語を読みとることができる言葉のような装置となっている。それと似て、田中慎平の絵はそこに読み解くための仕組みや、あらかじめ自分たちが生きる社会の中で共有される物語は存在し得ないのだが、読み解くことを求めるという一点において、ただ見る物という性格の強い今日の絵画とは異質な物になっている。 |
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2001年 |